呆然とするうれしさ

「人は本当にうれしいことがあると呆然とすることもある。」

 

松本は最近ぐっと冷え込んできた。

特に朝晩は10℃以下になることもあり日中との寒暖差が大きい。

先日のバイトの飲み会の帰り(午前1時)には吐いた息が白くなるほどだった。


最近お手伝いしているりんご農家さん(古い友人の姉夫婦)にリンゴ収穫体験の初来客があった。
自分も通訳だけでなく、準備なども手伝わせてもらった。
タイからの観光客で、大人6人と子供3人の合計9人。
自分達で車を運転し、東京から日立、日光、軽井沢、松本とまわっているそう。
みなさんとても礼儀がよく、予想していたよりも特に注意など必要なく、
りんごの収穫を楽しんでいた。
タイにもりんごはあるが日本のものよりも小さくあまりおいしくないらしい。
りんご畑に来るのも初めてでその風景も楽しんでいた。
大人だけでなく子供たちも無邪気に畑を走り回って松本の自然をのびのび楽しんでいた。

りんごの収穫後は家で和菓子やお茶をだしてもてなした。
あまり和菓子は口にあわなかったよう。。。
しかしみなさん満足の様子で富士山に向けて出発していった。

実際にやってみると、改善できそうなところなどもいろいろ分かった。
このような体験型のものは意外と言葉で説明するより、思い思いに楽しんでもらった方がよい。
言葉はあまり必要ない。
次回が楽しみ。
ただもっと来てもらうにはどうしたらいいだろう、、、、

 

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お客さんが帰った後、
「はーーーーーー」と全員で安堵のため息。
しばらくするとじわじわと喜びがわいてくる。
嬉しいという気持ちが自分の体内から湧き上がってくるのをそれぞれが感じる。
だからといって「やったーーーーー」と両手をあげて喜べる元気は残っていない。。。
でもうれしい。
正直自分は特に何もしていないのでご夫婦の力でやり遂げたことだが、我がことのようにうれしい。
こんなにうれしいことは久しぶり。
自分の感情というものを素直に受けとめること、時間をかけて味わうことはすごく贅沢な時間かもしれない。

はー、幸せです。。(笑)

こんな体験させていただけることに感謝ですね。

うまい空気、まずい空気

松本は空気がうまい。
もちろん物理的に?澄んでいる・きれいということもあるが、
この街に流れる空気はとにかく心地がよい。
どこに行っても居心地がよいし、そこに流れる空気がうまい。

最近はとにかくいろいろな人のお手伝いをさせてもらっている。
例えばこの前は今年松本市に越してきて、
今は自分たちでカフェを建設中のChrisとクミさんを手伝った。
Chrisが自分でデザインし、自分で作っている。
本当に彼はすごい。
アメリカにはDIY精神が根付いており、家の補修や増築など自分でやる人が多いのだそう。
Chrisも小さいころから父親が家の作業を間近で見て育ったらしい。
Chrisいわく、
「やったことはないけど、それが可能なことは知っている」
かっこいい。
「それを知っててやらない方がおかしい」のだそう。
さすがアメリカ人なのか、
Chrisだからなのか。
とにかく彼はとてもいいやつ。
出会いに感謝。

はてさて、もう一つ手伝っていること。
古い友人の姉夫婦がリンゴ農家を営んでおり、
今週から外国人向けにりんごの収穫体験を始める。
英語が心配ということで少しお手伝いさせてもらっている。
おじいさんから受け継いだお宅も立派な日本家屋で、
りんごの収穫体験のあとはそこでお茶も出す。
日本の文化体験という意味でも外国人にとっては面白そうなイベントだ。
先日はそのチラシができたとのことで、
お姉さん、娘さん(7か月)と3人で市内のホテルや観光協会を回り、
チラシをおいてもらうようにお願いした。
いわば、営業である。
ご主人は台風で落ちてしまったりんごの片づけ作業で来られなかった。

突然の訪問にも関わらず、
ホテルの方々は快く引き受けてくれて、
人の温かさを感じた。

と同時に、

子育ての大変さもわずか数時間であったが体験した。

昨今は待機児童問題や出産後の女性の就労支援など子育て問題のニュースを多く聞くが、
個人的には大変だとか思いつつ、自分は理解がありますよ的オーラを出していた。
実際に公共の場で子供が泣きだしても、
「元気いっぱいでいいな」と思いつつ、あまり不快だとは思わなかった。
しかし、これが意外と当事者(自分の子供ではないが)となると気を使う。
例えば、先日の場合は
ホテルの方にイベントのことを説明中に泣き出してしまったりすると
なんだか申し訳ない気持ちになるし、
街中をベビーカーで歩いていても少し気を使う。
普段は全く気にならないような段差がすごく気になる。
体験しないと分からないことはいっぱいある。
お昼ご飯の場所を探すときも、
お姉さんはなるべくがやがやしたところを探していた。

「静かだと泣き出したときに目立つから。」

ちょっとさみしい。
そう思わないでほしいが、確かに自分が当事者になるとこれも分かる。

じゃあどうしたらそう思わなくなるのだろう。

よく社会の理解が必要と言うが、その通り。
でももっと大切なのはそれを「示すこと」。
いくら理解があっても示さなければ意味がない。
伝えることで、救われる。
先日もホテルの方が一言先に赤ちゃんに声をかけてくれるとなんかその場の空気は変わったと思う。
赤ちゃんを見て笑顔であったので、不快には思っていないということは分かったけど、
なんだか気まずい空気が流れていた。

いわば空気が悪かった。

確かに他の人が赤ちゃんやお母さんに声をかけている場で
赤ちゃんが泣きだしてもそこまで気まずい感じにはならなさそう。
一人でも多くの人がその場でお母さんの味方となること。

空気って意外に重要で、空気によって状況が一変することはよくある。
いじめとかもこういう一面がよくあると思う。
いじめの原因って実はどうでもいいようなことが多い。
だけどガキ大将みたいなやつがいじめようと決め、そのような空気を作る。
ダウンタウンの松本さんが、
いじめのある所に芸人を派遣すれば状況は変わるんじゃないかということをこの前テレビで言っていた。

話は少しそれるが芸人さんは空気を作るのがとてもうまいと思う。
というかむしろ空気を作ることが本業なのでは…
「この人なんか面白そう」という空気を作ると人は笑う。
よく同じネタでも場所によって受けるところと受けないところがあるというのはまさにそれのように思う。

空気を読む日本人ではあるがちょっとシャイな分こういうところは苦手な気がする。
読むのは得意だけど、作るのは苦手。


社会の理解も必要だが、
それを「示すこと」がもっと必要だと感じた一日。

 

 

ちなみにイベントは今週からです!
イベントの他にも農家民宿も始めるそうなので興味のある方是非!!
高台から見る松本の景色もとってもきれいです。

https://www.facebook.com/yokoyafarm/?fref=ts

レコードという新しさ

近松本に新しくレコード屋ができたということを聞き訪れてみた。
「新しい」「レコード」

という言葉が何だか矛盾して聞こえるが気になるので出かけてみた。

場所は蔵の通りで知られる中町通りを抜け、

昔はカタクラモールという商業施設があった方へ少し行ったところ。

地元民なら知らない人はいない

「美人度5% 元気度95%の店 オバタリアン」の近くである。

お店は古い店舗を改装したもので、シンプルなつくり。

店の方は松本市内の大学を卒業後、県内の企業に就職。

自分でお店を松本で開きたいという夢を持ち先月開業に至った。

店内にはバーカウンターもあり、レコードだけでなくお酒やコーヒーも楽しめる。
お店の奥にはDJブースもあり時々イベントも開いていくとのこと。

あまり音楽にこだわりがない自分なのでそこにあるレコードなどは全く分からなった。
レコード屋を始めたきっかけを聞くと、
たまたま好きなアーティストがレコードを出し買ったのがレコードとの出会いであったらしい。
ジャケットのかわいさなどに魅了され集め始めたとのこと。
また最近は音楽のデジタル化にともない、レコードがそれへのカウンターカルチャーとして広まっているらしい。
さらにレコードを購入するとその曲のダウンロードもできるそう。
音楽の聞き方も多種多様で、
家ではレコード、外ではダウンロードしたものと分ける人もいるようだ。
店主さんいわく、
音も非常に繊細でダウンロード版では拾いきれない音まで拾えるので音もきれいとのこと。

自分自身レコードを聞いたことはあまりないので、
視聴させてもらったがまずその原理に驚いた。
レコードの上に溝があり、針がその振動をキャッチして音が流れる。
早送りなどは正確にはできない。
今の時代不便っちゃ不便である。
しかし、なんかいい。
耳だけでなく、視覚でも音楽を聞いているという感じ。
また店主さんの言う通りジャケットもおしゃれ、まさにアート。
ディスクが大きい分いろいろな表現ができるらしい。
ジェケットで選ぶこともあるそうだが、なんかわかる。

いくつかのレコードには店主さん直筆の紹介も書かれている。
知っているアーティストでなくても、どんなアーティストなのか、
そしてどんな音楽なのか(楽しいのか悲しいのかetc,,)が分かる。

松本にはこのようなカウンターカルチャーのようなものが多く存在するような気がする。
例えば古本屋も多かったり、ショップカードなど今ではネットでどうにかなるものをあえて使っている。
モノへのこだわりが強いのだろうか。

そういえばレコードを聞きながら、
大学時代に一度お会いしたイタリア語の先生の言葉を思い出した。

「最近は音楽を噛みしめて聞くことがなくなった」

たしかにそうだ。

今はききたいとおもえばyoutubeとかでどこでも音楽は聞けるし、
いい音楽だと思えば検索することもできる。
でも昔はどうだったろう。
その音を聞く、その人の声を聞くにはその場へ行かなくてはならなかった。
レコードを買うか、週に一回のテレビで聞くことしかできなかった。
音楽の貴重さが全然違ったのだと思う。
だから聞けるときには自分の耳を全身全霊傾けて、
まさに「かみしめるように」聞いていたのではないか。
音楽を私たちの都合のいいように扱うことはできなかった。
あらゆる条件をかいくぐってやっとたどり着けるものであった。
だからかわからないが、
両親は曲の歌詞は全部覚えているし、
発売年やその時の状況などこと細かに覚えている。

最近はどうだろうか。
歌詞を全部覚えている曲は少ないし、噛みしめて聞くことなどない。
何となく聞きながしている。

松本にいるとふと立ち止まって、自分の生活を考え直す機会がある。
時には大切なことに気づかされるし、人生がより豊かになる方法を学ぶこともある。
越してきて一番の変化かもしれない。

おくやみ欄について思うこと

まさか初投稿がこんな話題になるとは思わなかった(笑)

松本に帰ってきてからというものいまだに定職についていないということもあり、
朝はゆっくり過ごすことができる。
この年になって小学生の時と同様、7時15分に父が会社に行くのを見送るのは
ちょっと恥ずかしいものだが、その時間にちゃんと起きていることがフリーターとして褒められるべきだろう。
最近は夜はすぐに眠くなるし、朝は割と早めに目が覚める。
朝はヨーグルトとコーヒー。
一応この歳だし、時間もたっぷりあるので新聞も読むようにしている。
もっぱら最近のお気に入りは「市民タイムス」。
松本市周辺の情報を扱うタウン誌である。
一面も全国紙とは異なりローカル。
「○○小学校が何周年」とか「○○祭り元気いっぱい」とか
難しい政治の話とかが書いてないので、とても読みやすい。
全国紙が新書だとすれば、こちらはエッセイ集みたいなもの。
それも地域で生きているとこの情報力がすごい。
これに載るとけっこう話題になるし、あちらもネタ探しが大変なようでこちらからネタ提供をするととても喜ぶらしい。

その中の一面に「おくやみ欄」というコーナーがある。
これは最近亡くなった方の情報がのっており、葬式の日時などが記載されている。
毎日だいたい5人ぐらいは載っているだろうか。
うちの母親もこれは毎日チェックしていて、
どこどこのばあちゃんが亡くなったとかここで知ることも多い。
これも地方ならではのものではないだろうか。

おくやみ欄の構成のされ方は、
まず名前の横に「○○が好き」「元○○会長」「元○○勤務」などその人の人柄や肩書を表すひと言が来る。
そのあとに名前、享年、死因、住所、趣味や勤務先について、そして葬式の日時などが記載される。
おそらく文字数にしたら原稿用紙半分くらいではないだろうか。
そうするとまあ200文字くらい。

なんだか面白い。
要するにそれがその人の人生なわけだ。
知人であればその人がその人だと理解でき、
知らない人でもその人がどんな人だったのかだいたいわかるということ。

内容も人によって本当にそれぞれ違う。
「元市議会議員」「元○○社長」など肩書で記載される人もいれば、
「花が好き」「家族想い」など趣味や人柄であらわされるパターンがある。
特に前者は男性に多く、後者のパターンは女性に多い。
やはり昔の一般的な家族像として父親が働き、母親は主婦という形が多いからだろう。

なんとなく今自分が死んだら何と記載されるのだろうと考えてみたくなる。

山雅が好き。
山崎量平(享年24)
3日の夜大型トラックと衝突し病院に搬送されたが4日朝死亡。
松本山雅のファンでありよくスタジアムに試合を見に行った。先月東京より生まれ育った松本市へUターンしこれから活動を広げようと志半ばだった。
葬儀は身内のみで執り行われる。喪主は父、剛さん。

リアル。
そして内容がつまらない。
もっと面白くならないものか。

目玉焼きは醤油派。
山崎量平(享年24)
3日の夜大型トラックと衝突し病院に搬送されたが4日朝死亡。
もっぱら目玉焼きには醤油派であり、コショウがあるとベストだった。
映画鑑賞が趣味で、好きな映画は「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!大人帝国の逆襲」。
葬儀は身内のみでとり行われる。喪主は父、剛さん。

ふざけすぎたが事実。
それにしても内容があまりにもなさすぎる。
これが自分の人生ということか。
まだ24歳とはいえこれでは寂しい。

例えば無趣味のニートの場合はどうなるのか。
やはり人柄になるのか。
さすがに地方紙でも「ニート」とは書かないだろう。
もし誰からも愛されず、誰のことも愛していない人だったらどうなるのか。
おそらく内容は生後生まれて間もない赤ん坊よりもない。
赤ん坊は愛されているだろう。
というかその場合は新聞にも載らないのでは。
市民タイムスもどこから情報を取ってきているのか分からないが、
そもそもその人がどんな人だったのか語る人がいなければこの記事はなり立たない。

その人がどんな人だったのか。
たった200文字ではあるが、そこには物語があり、その人が生きた証がある。
自分は何者なのだろう。
産まれた瞬間はみな0かもしれないが、
そこから自分というものを形成していってその人となる。
私は何者なのか。


考えてみると意外に面白い。